地雷廃絶
地雷廃絶国際キャンペーン(ICBL)
1992年10月、6つのNGO(非政府組織)によって、対人地雷の全面禁止を求める連合体として、
ICBL(地雷廃絶国際キャンペーン)が設立されました。その6つの団体は、ベトナム退役軍人アメ
リカ財団(VVAF)、ヒューマンライツ・ウォッチ(HRW)、ハンディキャップ・インターナショナ
ル(HI)、メディコ・インターナショナル(MI)、マインズ・アドバイザリー・グループ(MAG)と、
フィジシャンズ・フォー・ヒューマンライツ(PHR)です。
これら6つの団体と、趣旨に賛同して後から参加したその他の団体は、難民や戦争で破壊され
た村や部落を援助するために、義足の提供、地雷除去などや人権侵害を証明する資料の作成などの
さまざまなプロジェクトを行っていました。これらのすべての団体は、地雷の恐怖を目撃しており、
この問題の根底にあるもの ―― 地雷を禁止して、今後はこれ以上作らせない、売らせない、埋め
させない、 ―― ということを呼びかけるためにICBLに参加することを決めました。
ジョディ・ウィリアムズの主導の下、ICBLは電話やファックスを使い、地雷全面禁止の活動を
求めるために、世界中のNGOと連絡を取りました。目標はとてもシンプルなものでした。対人地雷の
使用、製造、貯蔵、移転の禁止と、地雷除去や犠牲者援助のためにこれまで以上に多くの資金、人材、
物資を割り当てること、がそれです。
何百もの団体がICBLに参加し、自分が住む地域社会の人々の地雷に対しての関心を高めるた
めのイベント(講演会、展示会、署名運動など)を開きました。メディア(新聞、ラジオ、テレビ
など)に話しかけ、政治家に対してはロビー活動を行いました。そして、ICBLが世界中で巻き起こっ
た地雷廃絶への動きをバックに、オタワ・プロセスとして知られているキャンペーン活動を推し進め
ていきました。
オタワ・プロセス
ICBLのメンバーは、地方、国、地域、世界、すべての段階での働きかけが必要であると気づきま
した。同様に、国際連合、赤十字国際委員会(ICRC)そして、各国政府とのパートナーシップ(協働
作業)を組むことも全面禁止という目標を達成するために必要なことでした。
その頃は、1980年の「特定通常兵器使用禁止・制限条約(CCW)議定書U」が対人地雷の使用を規
制している唯一の条約でした。地雷の影響を日々目撃しているNGOのメンバーは1980年の「CCW議定書
U」による規制が抜け道だらけであることに失望し、「CCW議定書U」の改正を求め始めました。フラ
ンス・キャンペーンがミッテラン大統領に「CCW議定書U」の改正を求める国連の会議を開くように求
めました。ミッテラン大統領はそれに賛成しましたが、そのような条約の改正を審議する「条約の再
検討会議」を招集できる最も早い時期は1995年で、それまで2年待たなければなりませんでした。
CCW再検討会議までの2年間は、一般市民や政府の地雷に対する関心を高めるために使われました。
カナダからカンボジアに至るまでの各国のキャンペナーたちは、街頭、工場、寺院、市場、学校に出
かけて、人々に対して地雷の危険を説き、地雷を禁止しなければならないと訴えました。このキャン
ペーン活動はICBLの「CCW再検討会議」に対する準備会合が終わるまで続きました。
1995年から1996年までCCW再検討会議の準備諸会合が行なわれた期間中、ICBLはニュースレターや
最新情報を流し、政府代表者にはロビー活動を行い、公に路上や会議場でイベントや展示会を行いま
した。しかし、1996年5月の「CCW再検討会議」ではキャンペーン活動は報いられず、再検討会議で
はCCW議定書Uに少し改正された点はあったものの、ほとんど何も変わりませんでした。
しかし、これによって地雷問題は各国の政府や市民の注目を集めることになりました。CCWの
議定書Uの改正では地雷の全面禁止ができませんでしたが、対人地雷の全面禁止は必要であると、
全面禁止を支持する声が高まりました。議定書Uを改正して全面禁止を実現する事ができなかった
ものの、再検討会議の最後では40ヶ国が全面禁止を支持すると表明しました。これら40ヶ国の政府
とNGOが一緒に働き始めるのと並行して、全面禁止を支持する世界の意識も高まり、これらの政府は
ますます切迫感を感じ始めました。カナダ政府は"対人地雷の全面禁止に向けた"オタワ・プロセス
を始めるために、1996年10月、各国政府とICBLをオタワに招待しました。
この1996年10月のオタワ会議の最後の会合の席上でカナダ政府は、各国の政府の代表団は自国に
戻り、対人地雷全面禁止条約に参加するかどうかを審議した上で、1997年12月にオタワに再度集まり、
対人地雷禁止条約に署名して貰いたいと提案しました。各国政府に衝撃が走りました。条約に署名す
るかどうかの国内の審議に1年しかありません。前代未聞です!! 他の条約は署名まで何年もかかって
いるのです。このようにして、オタワ・プロセスは正式にスタートしました。各国政府やICBLその他
のNGOは、1997年6月、ベルギーのブリュッセルに集まり、更に強い政治的な意志と運動を構築した上
で、1997年9月にノルウェーのオスロで会議を開き、実際の条約の各条文の内容について交渉をするこ
とと決定しました。
 Photo: John Rodsted |
これまでの経過を振り返ると、条約の最初の草案が書かれたのは1997年2月、111カ国がオースト
リアのウィーンに集まった時でした。ウィーン会議の後、NGOや国連、ICRC(赤十字國際委員会)等
の対人地雷の全面禁止に賛成の政府の仲間たちはオタワ・プロセスの支持を広げるために世界中で行
われたセミナーやイベントに参加しました。1997年6月24日のブリュッセル会議の前には、要人の訪問
や会議がモザンビークや日本、ジンバブエ、ドイツ、南アフリカ、スウェーデン、トルクメニスタン
でも行われました。ブリュッセル会議に先立つこれらの活動は成功でした。
ブリュッセル会議に出席した国々の中で97カ国もの国が、オタワ・プロセスへの支持を宣言した
ブリュッセル宣言に署名しました。1997年9月、各国政府はノルウェーのオスロに集まり、条約起草
会議が開かれました。特にアメリカ政府は留保条件をつけ、抜け道の条項を挿入して条約の対人地雷
禁止の条件を弱めるような提案をするなど、多数の試みをしましたが、殆どすべての政府は「例外
なし、留保条件なし、抜け道なし」の条約を採用しました。
オタワ・プロセスでは、対人地雷の全面禁止に賛成の政府とICBLがともに新しい形のパートナー
シップ(協力態勢)をとりました。国連の会議とは違い、ICBLメンバーはブリュッセルとオスロの会
議に参加することが許されました。ICBLを代表する何人かが政府レベルの会議場に入り、一方で、他
のメンバーはロビー活動、会議の報告書の作成、ニュースレター発行、路上でのイベント、国際会議
場のホールで展示会をやるなど、それぞれの活動を続けました。
1997年12月3日カナダのオタワで、122カ国が"対人地雷の使用・貯蔵・生産・移転の禁止とその
廃棄に関する条約"に署名しました。世界中の市民社会が、たった1年間で国際的な協定を結ぶとい
う偉業を成し遂げたのです。また、NGOの代表が、条約交渉の中で重要な役割をはたしたというのも
初めてのことでした。
1997年の地雷全面禁止条約に参加するということは、その国に貯蔵されている地雷を4年以内にす
べて廃棄すること、その国に埋まっている地雷を10年以内にすべて除去することを意味します。ただ
し、ひどい地雷被害国には延長も認められています。またこの条約は、条約に参加する国の政府は条
約で定められた事項の進行状況を毎年国連事務総長に報告し、さらに、先進国は地雷被害国の地雷問
題を解決するために地雷除去や犠牲者支援の援助をする義務があることも含んでいます。
条約が発効した1999年3月1日以前は、各国は条約の署名をするか、批准をするか選ぶことができ
ました。条約に署名するということは、近い将来にこの新しい国際法を固く守ることに同意すること
です。批准をするということは、条約のすべての条項に法的に拘束されるということを国際的に約束
する事です。そのために地雷を禁止する国内措置をとる(例えば、地雷禁止の国内の法律を制定する)
必要があります。条約が発効した1999年3月1日以降は、取り敢えず条約に署名だけをして、後から批
准するということができなくなりました。国は条約を承諾し、つまり同時に署名と批准をしなければ
ならないのです。
1998年9月16日、ブルキナファソが40番目の批准国になったので、条約の定める所により、6ヶ月目
の最初の日である1999年3月1日に条約が発効されました。対人地雷全面禁止条約は今までの国際条約
のうちで、もっとも早く効力を持つようになった条約なのです。2001年9月末現在で、142ヶ国が調印
し、122ヶ国が批准をしています。
地雷禁止条約批准最新状況
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